- 2012年10月7日 7:52 PM
- 最後だとわかっていたなら
9月29日の産経新聞から、下記のような内容の記事を見つけました。
【死亡の消防隊員「頑張り屋」一番乗りで現場到着 日本触媒製造所爆発】
兵庫県姫路市網干区の化学メーカー、日本触媒の姫路製造所で29日起きた突然の爆発は、一番乗りで現場に到着していた若き消防隊員の命も一瞬にして奪った。
亡くなった姫路市消防局網干消防署の山本永浩消防副士長(28)は平成19年に関西大を卒業後、21年4月に拝命。同年10月から網干消防署に配属された。山本副士長は厳しい救助訓練にも根をあげない「頑張り屋」で、消防学校でも年下の同期などに気配りをしていた面倒見のいい兄貴分だったという。この日は午後1時50分ごろ、日本触媒の社員から「アクリル酸が融合した可能性がある。異常反応で煙が出ている」と通報を受け、一番乗りで現場に到着。しかし、周辺を確認し、態勢を整えていたとみられる午後2時半ごろ、発生した突然の爆発に巻き込まれた、死因は爆発による全身やけどだった。
山下薫・網干消防署長は「将来有望で大事な隊員だった。このような形で命を落としてしまい、ご家族に申し訳ない」。姫路市消防局の中川勝正消防局次長(55)は記者会見で「市民の安全安心を守るために最前線で活動した結果。同じ消防職員として痛恨の極みだ」と声を詰まらせた。
この記事を読んで、私は2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロのあと、チェーンメールとして世界中に広がった「最後だとわかっていたなら!」の詩を今月のマンスリートークとして紹介したくなりました。それは、9.11テロの時、救出作業の途中に亡くなった29歳の消防士が、生前に書き残した詩として紹介されていました。
ここから、その日本語翻訳を紹介したいと思います。
あなたがドアを出て行くのを見るのが最後だとわかっていたら、わたしは あなたを抱きしめて キスをして、そしてまたもう一度呼び寄せて、抱きしめただろう。
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが最後だとわかっていたら、わたしは その一部始終をビデオにとって、毎日繰り返し見ただろう。
あなたは言わなくても 分かってくれていたかもしれないけれど、最後だとわかっていたなら、一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と、わたしは 伝えただろう。
たしかにいつも明日はやってくる、でももしそれがわたしの勘違いで、今日で全てが終わるのだとしたら、わたしは 、今日どんなにあなたを愛しているか 伝えたい。
そして私達は 忘れないようにしたい。若い人にも 年老いた人にも 明日は誰にも約束されていないのだということを。
愛する人を抱きしめるのは、今日が最後になるかもしれないことを、明日が来るのを待っているなら、今日でもいいはず。
もし明日がこないとしたら、あなたは今日を後悔するだろうから、微笑みや 抱擁や キスをするための ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのか、忙しさを理由に、その人の最後の願いとなってしまったことをどうしてしてあげられなかったのかと。
だから 今日 あなたの大切な人たちをしっかりと抱きしめよう。
そして その人を愛していること、いつでも いつまでも大切な存在だと言うことをそっと伝えよう。
「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を伝える時を持とう。
そうすれば もし明日が来ないとしても、あなたは今日を後悔しないだろうから。
その後、この詩の本当の作者はノーマ・コーネット・マレックというアメリカ人の女性であり、彼女が亡くなった我が子を偲んで書いた詩であり、その作者の悲愴な体験を目にして共感した誰かが9.11テロの時に亡くなった人々を偲び、平和を訴えるために無断で配信をして、それが徐々に亡くなった消防士の生前の詩として世界中に広がっていったということが分かりました。ノーマはケンタッキー州の美しい山々に囲まれた大自然の中で生まれ、軍隊に出向いている父、そして遠方の軍事工場で働く母の代わりに、やさしい祖母に育てられました。幼い頃から詩を書くこと、絵を描くことが大好きでした。そして祖母と同じように平和を尊び、誰に対しても親切な愛情深い女性でした。やがて成人したノーマは2児の母となり、その後夫と離婚しました。と同時に、命よりも大切な子どもを失ってしまいました。ノーマが親権を得たにもかかわらず、夫が2人の子どもを連れ去ってしまったのです。ノーマは警察の協力のもと必死に子どもたちの行方を探したが、消息のつかめぬまま時間だけが過ぎていきました。そして2年後、突然の息子の訃報が来ました。10歳だった長男のサムエルが弟と水辺で遊んでいた時、遠くで小さな子どもが溺れているのを見つけました。それを助けようとして自分も溺れてしまったのでした。その後、ノーマは悲しみを抱えたまま、残された次男と2人で暮らしました。しかし亡くなったサムエルのことは決して忘れられない。サムエルに伝えたかったけれど、伝え切れなかった数々の言葉や想い、ノーマはそれらを一篇の詩に託し、1989年に発表しました。それが、この「最後だとわかっていたなら!」です。
赤の太文字からはリンクします。
先月のマンスリートークで紹介した「ニューヨークへ愛を!」を読んで下さったある方が、かつて見た洋画のペイ・フォワードの話を思い出しましたと教えてくれました。そこで、早速ペイ・フォワードとはいかなるものかと思ってDVDを見てみました。ある少年が、「自分が受けた善意や思いやりを別の3人に渡す。」という筋なのですが、何とラストシーンではその善意で友人をいじめっ子から助けるという行為が災いして、いじめっ子にナイフで胸を刺されて死んでしまいます。よって、このペイ・フォワードの主人公に対しての母親の気持ちも、今回の「最後だとわかっていたなら!」そのものだと思います。私は大学時代、1年4ヶ月のあいだに祖父と父を続けて亡くしました。(2010年マンスリートーク12月の後半) 2代目院長の 祖父の賢哉(けんさいと読みます。)は、初孫の私を「目に入れても痛くない」ということわざ通りに可愛がってくれました。2代目院長の父の賢(けんと読みます。)は、私が高校2年の夏、東京の予備校の夏季講習が終了したのちに、東京の下宿で使っていた机や椅子などの家具や参考書を1日も早く自宅に持ってこようとして(当時は今と違って宅配業者などいませんでした。)、午前中の診療を14時近くまで行い、それから東京府中まで往復して、夜中の4時頃に帰宅したのに、次の日は無理をして普段通りの朝9時から外来をやってくれました。祖父は私が大学4年の12月に自宅で倒れ、そのまま2日後に亡くなりました。その1ヶ月前に最後に祖父に会った時は結構元気だったので、自分は祖父に「ありがとう」や「感謝」の気持ちを1度も伝えずに終わってしまいました。また、父は、私が大学4年の春休みにアメリカのサンディエゴのホームスティから帰国した際、夜遅くに自分の車で羽田空港まで迎えに来てくれました。そして、その1週後に心臓疾患で帰らぬ人となってしまいました。ですから、父に対しても祖父同様に「ありがとう」や「感謝」の気持ちを1度も伝えずに終わってしまいました。そんな2人に対して、私も彼らとの最後の会話が、本当に自分の人生最後の機会だとわかっていたなら、もっといろいろな感謝の言葉を言えたと思うのですが、今からでは間に合いません。
文責
谷口雄一
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